何でもかんでも証明すべきか?

前回のこのブログでは、《数学の楽しみ方》というタイトルで、
直観的に明らかなことの証明を考えることも数学の楽しみ方のひとつだという話を書きました。
数学では証明が大事だということに異論はないと思いますが、だからといって、何でもかんでも証明すべきかというと、それにはいろいろな意見があります。

まず、時間の問題があります。
時間の問題とは、つまり、時間的な順序関係の問題ということです。
フェルマーがフェルマー予想を立ててから証明されるまで360年かかりましたが、
その間、数学が何も進展しなかったというと、そんなことはまったくありません。
フェルマー予想が完全に証明されるまでの間にもいろいろな進展があり、数学の歴史がありました。
まず、フェルマー自身は n = 4 の場合についてフェルマー予想を証明しました。
その後、長い年月はかかりましたが、n = 3 の場合の証明ができました。
というふうに、完全な証明にいたる前に、さまざまな部分的な証明が得られたというのが歴史の実相です。

フェルマー予想が証明できなくても、フェルマー予想と他の命題との間の関係についての研究もされました。
何が証明されると、その系としてフェルマー予想が証明できるのかという問題や、
逆に、もしフェルマー予想が証明されたとすると、そこからどんなことが導かれるのかということも考察されました。
つまり、フェルマー予想のように興味深く、重要そうに見える予想について、数学者たちは、
予想が証明できていないから、関連する思索を何もしてはいけないという態度で臨んだのではなかったといえます。
実態はむしろその逆でした。

まだ、数学が未発達で、フェルマー予想を証明できるだけの道具立てが揃っていない時代には、
下手に証明を試みるよりも別にやるべき仕事があったのだといえます。

数学では、予想を立てることも大切です。
予想を立てたあとは、道は2つに分かれます。
ひとつの道は、予想が成り立つことを仮説して、そこから何がいえるのかを研究することです。
もうひとつの道は、予想そのものの証明を試みることです。
このどちらも大切で、そしてこの2つのどちらを先に解決しなければならないという時間的順序関係の制約はないのです。

学習者の立場からいうと、とりあえず、目前の目的に対して、明らかそうに見えることは、ある程度は証明なしで認めてしまい、先に進む方がよいでしょう。
細かい部分の証明は、あとで、時間ができたときにゆっくり考えればよいのです。
何でもかんでも証明ができるまで、一歩もその先に進まないと決めることは害の方が大きいでしょう。