ロバの橋

ヨーロッパの学校制度では、20世紀に入るまでユークリッドの幾何学が教えられていました。

「二等辺三角形の両底角は等しい」という定理は『原論』の中では命題5として登場します。『原論』の第一巻には命題が48個ありますが、それらの中でも早く登場するこの命題は、それだけ重要な基礎となる定理だといえるでしょう。また、この定理の『原論』に載っている証明は複雑な補助線を使うことでも有名です。証明の図が橋の形のように見えることから、この定理は「ロバの橋」という異名を持っています。

二等辺三角形は左右対称だから、両底角が等しいのは当然のように思われます。しかし、その当然のように見えることをユークリッドは複雑な補助線を引いて大真面目に証明しているのです。ユークリッドの証明は確かに複雑で、その論理を追うのは困難です。そこで、多くの生徒が幾何学の授業がこの定理に差し掛かったところで落ちこぼれたことから、「ロバの橋」と呼ばれるようになったということです。つまり、証明の図が橋のような形をしていることに加えて、幾何学を習い始めたばかりのところで現れるこの定理が、幾何学を理解する関門のように思われたことも働いているでしょう。

しかし、なぜ「ロバの」橋というのでしょう。ロバはどこから来たのでしょうか。

中学生クラスの授業が終わって、家に帰り、イギリスのTVドラマ「ダウントン・アビー」を見ていたときのことです。その中のセリフのひとつにdonkeyということばが使われていました。登場人物たちが、ドンキー、ドンキーと嘲るように言い、その部分の字幕には「トンマ」と書いてありました。これを見て、定理が「ロバの橋」と呼ばれるもうひとつ理由、それもかなり本質的な理由がわかりました。つまり、西洋の伝統では、ロバは愚かな人間の代名詞なのです。この証明は「トンマにはわからないだろう」というのが、口さがない学生たちの「ロバの橋」ということばに込められた本当の意味だったのです。

そう考えると、日本の書物にある、「この定理はロバの橋と呼ばれることがある」という記述は、いささか焦点をぼかした表現であるといえるでしょう。もともと「ロバの橋」という表現には、「ロバ」などという上品な表現を使った翻訳からは想像できないニュアンスが込められているのです。